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(青字で表記した話題は既に「ロマンの連載」の中で取り扱っています)
■日本は南北に長い島状の地形ですが、それゆえに独特の自然環境があり、動植物が豊かな生態系を維持してきました。水運に恵まれたことで人の交流が起こり文化が育まれました。どのような地形や自然から恵まれた水運をもたらせてくれたのでしょうか。
■京の都はなぜ1100年間も継続することができたのでしょうか。歴史的には武家による幕府政治が続いたからですが、それだけでしょうか。
■「北前船」の「買積船」の商法のルーツは、近江商人の「諸国産物回し」という往路も帰路も商売をする「のこぎり商い」の商法だと言われています。海に面しない近江地方から蝦夷地まで商圏を広げた近江商人が活躍できたのはなぜでしょうか。
■江戸時代の前期に、東北から大坂や江戸に米を運ぶのに、わざわざ遠回りとなる日本海沿岸諸港と、瀬戸内海を経由して大坂に行く「西回り航路」と、太平洋で江戸に行く「南海航路」が、なぜ、幕府直轄で開設・整備されたのでしょうか。
■河内や瀬戸内地方で「綿花」が栽培され、保湿性、吸湿性、耐久性に優れた綿の着物が普及し、北国での寒い冬の生活を過ごしやすくできたことに「北前船」がどのような役割を果たしたのでしょうか。
■昆布で出汁を取るのは日本料理の基本。その技術を確立したのは、京、大坂の料理人です。北の海に育つ昆布がなぜ京や大坂で利用され、そして日本料理の基本である出汁になったのでしょうか。北前船が運んだ「昆布ロード」はどこまで到達したのでしょうか。
■幕末に貧乏藩であった薩摩藩が財力を蓄え、徳川幕府を倒すことになったのは歴史的事実です。しかし、そこに越中藩の富山の薬売り商人が関係したこと、そこに北前船が役割を果たしたことは歴史では出てきません。どんな物語があるのでしょうか。
■大阪湾に面した寒村だった「灘五郷」が日本の最大の酒蔵になったことに、海運そして北前船はどのような関係があったのでしょうか。
■瀬戸内海は穏やかな海に見えても航海するにはいくつも難所がありました。その実情を熟知する塩飽諸島の人びとの巧みな航海術や、荒波に強い弁才船が産み出され、徳川幕府に重用されました。幕末の歴史の中でどのような役割で登場したでしょうか。
■兵庫津は天然の良港として、北前船の重要な寄港地として栄えるだけではなく、工楽松右衛門や高田屋嘉兵衛の活躍する舞台となりました。2人を様々な面から支えたのが豪商「北風家」でした。明治維新でも名を残しています。どんな役割を果たしたのでしょうか。
■大坂は豊臣家が滅んだ大坂の陣で荒廃しましたが、幕府により復興し、運河が巡らされ「水都」になり、「天下の台所」として経済の中心になりました。しかし、北前船にとって単に起終点の機能を果たしただけで、母港の役割を果たせなかったのはなぜでしょうか。
■日本海側の加賀国に大聖寺藩という藩が江戸時代初期に加賀藩から分離独立しました。藩内には大きな河川も、港もない農業を主体とする藩ですが、多くの北前船船主が単なる船乗りから誕生しました。どうした事情で多くの船主が誕生することになったのでしょうか。
■瀬戸内海は北前船にとって不可欠な航路です。もう一つ重要なことは、瀬戸内海で誕生した、良質の塩、蹈鞴の鉄、綿と綿製品、阿波藍(藍玉)などが、北前船の荷として積み込まれました。それらは瀬戸内海の特殊性から誕生したものです。どんな特殊性があったのでしょうか。
■北前船の北端点の蝦夷地の松前藩は、寒冷地のため米の収穫がなく、収入はアイヌ人との交易に求める特異な経済基盤でした。一方で、蝦夷地は大国ロシアが隣接する位置関係にあり、18世紀には、千島列島を静かに南下します。幕府は「鎖国制」の堅持と領土を守るためどのような手(政策)を打ったのでしょうか。
□国後島、択捉島など北方4島は現在ロシアに不法占拠されています。徳川時代に、その帰属を巡ってせめぎ合いがありました。そのために、蝦夷地と遠く離れた兵庫津の船主であった高田屋嘉兵衛と工樂松右衛門が国境の島エトロフ島の日本の領域化のために積極的に関わったのは、なぜでしょうか。
□日本は山地が7割を占め、雨が多く、山からの土砂を運んだ河川は肥沃な穀倉地帯を作りました。河川と海の接点である湊は砂地のため、木造船の碇泊には適するだけではなく、河川は流域で産する物資を運び出し、海は広域の地域と繋がるため、湊での物資の交換が日本の豊かな生活文化の発生地となりました。北前船と各地の河川の関係を改めて考えましょう。
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